映画完成前からですね、漏れ伝わってくる情報に寄りますと、父親である宮崎駿がコノ映画を作るコトに大反対で、口も聞かない程の親子間の断絶の原因になっていると言う、コレが例えばTBSならば、子供の年齢は中学生辺りで、友達や親戚までも巻き込んだホームドラマかなんかを、日曜の夜9時位から放送するんじゃないかとか思っておりましてですね、まぁ結局、オヤジがダメ出しする程つまらない映画なんだろうなと、ソンナ渡る世間に鬼ばっかりがいそうな映画は見るワケが無い!と、何ヶ月か前のワタクシは思っておりました。
映画が公開されると案の定、ネット上の評判なんか見ても皆さんがボロクソに、いや、ボロクソと言う言葉が何か他の、もっとこう上品なモノを指す例えに付ける冠なんじゃないかと思える位の感想を発表していたりするワケで、ワタクシも皆さんの感想を読んだり聞いたりしながら、あぁヤッパリそうだったかと、まるで2006年サッカーワールドカップドイツ大会での、日本代表の惨敗を予想していたスポーツライター馳星周の如き心境に陥っておりました。
TVで放送されるスポットなんかを見ても、一切の躍動感と言うか、コノ映画観たい!と言う興奮が感じられなくてですね、予告がツマラナイ映画ってどんなだ!と、思い返せばコノ辺りから、ワタクシのゲド戦記に対する興味は、方向を変えて来たと言えるでしょう。
本来予告ってのは、ソノ映画の見所がコーヒーに於けるエスプレッソ的に凝縮されているモノで、本編がどんなに、出涸らしのアメリカンコーヒーの様に薄っぺらい内容であっても、ソコソコ楽しめるモノになっているじゃないですか。あぁ、コノ映画を映画館の巨大スクリーンで観てみたい!と思わせるハズなのですが、逆にソノ興味を失わせる辺り、ゲド戦記=ポンコツ☆ムービーであると、ワタクシの中の見てはいけないんだケド見たくて仕方ないモノ、例えて言うなら真夏の夜にどうしても稲川淳二の怪談を聞きたくなって、夜中のツタヤにレンタルに走ってしまう、そんな衝動が込み上げてくるのを、抑えきるコトが出来なかったのです。
え〜、そんな心情を交錯させながら映画を観に行ったのですが、映画館の中には、夏休み中だし、世界に名だたるジブリ作品なんですから当然なんですけれども、何組かの家族連れの姿が見受けられまして、なんと申しますかハッキリ言ってですね、コレからスクスクと成長されるであろう、お子様の心の中に、一生心の棘となって刺さってしまう様な、ソンナ影を落としてしまうコトになりはしないだろうかと、どうでも良い心配が込み上げて来つつ、映画館の照明が落ち、ポンコツムービーが始まったのでした。
イキナリ展開される平坦な絵。色の浅さ。そして画一的な構図。冒頭は大荒れの海を航海する一艘の船のシーンから始まるのですが、画面から伝わってくる緊迫感はゼロ。ココが嵐の海上だなどとは、登場人物達のセリフがなければ一切伝わってきません。なんかですね、セットとか1つもなくて、セリフだけでココがどんな場所なのかと説明していく、町内の婦人会の演劇を見に来ている様な、そんなホノボノさがスクリーンを通して伝わってきます。
世界3大ファンタジーと讃えられる原作をワタクシは読んだコトがないのですが、映画を観るに辺りソノ世界に少しでも良いから近づきたいと考え、sci fi TVで放送されたと言うアメリカのTVシリーズを観てみました。Biglobeストリームで無料放送だったからなんですけれども。
ソノ中で主人公のゲドは、親から貰ったゲドと言う名前の他に、魔法使いの師匠に教えて貰ったハイタカと言う、自分本来が所有している真の名前をって言うのを持っておりまして、ソレは心の友にしか教えるな、とか言われていたのですが、コノ映画では、狼に襲われていた見ず知らずのヨレヨレの小僧ッコに、出会った瞬間自分の名前はハイタカであると告げておりまして、ソレがコノ映画最初にして最大の、ついでに申しますと最後の衝撃でした。多分始まってから20分位だったんじゃないかと思いますが。まぁ、原作でもソノ様になっているのかも知れませんケドね。
そんなワケで映画を観始めてから30分くらい経過した頃のワタクシの脳裏を過ぎったのは、早くCM始まらないかな?ってコトでした。映画館で映画を観ているコトを、思わず忘れてしまったワタクシは、いつまで経ってもCMが始まらない現実を目の当たりにし、そう言えば映画館に映画を見に来ていたんだったと、ギリギリのトコロで正気を保ち、深く深く、映画館のシートに身を沈ませていったワケです。
ワタクシは映画館の中で映画を観ながら寝たコトが実は2回あるのですが、1つは今やワタクシの心のマイルストーンにもなっているシベ超でして、2つ目は甲殻機動隊の2なんですけれども、主人公達が寝たり食べたり畑を耕したり等の、とてもファンタジー映画とは思えない程の日常を披露している間にワタクシは、猛烈な睡魔と戦っておりました。
そんなワタクシを奇跡的にもゲドワールドに呼び戻してくれたのは、本編の敵役、魔女のクモの存在でした。最初はですね、何かメーテルに代表される松本零士美女の亜流っぽいビジュアルに、特に何を感じるでも無かったワタクシですが、映画も山場に差し掛かった頃、真の姿を現したトコロで、一気にワタクシのハートをムギュムギュムギュ!と鷲掴みにする程捉えて離さなくなったのです。え〜、コノ映画に山場ってあるのか?って疑問は気にしない方向性で。って言うかココが山場です。
まぁ、敵役ですから多分悪魔とか、そんな位置づけなのかと思いますが、その風貌がですね、とても商業ベースで作られた作品に登場するとは思えない程簡単なモノでありまして、例えて言うならばこう、小学2年生が夏休みの最終日にですね、慌てて絵日記の全ページを埋めるハメになってしまって、でも書くコトが無くなってしょうがなく、夜道を歩いていたらお化けに遭遇しましたって書いてしまった、ソノ絵の様なビジュアルでして、そのポンコツさ、キテレツさを文章で表現するには、苦し紛れと言う単語以外ありません。
ソノ後はクモがスクリーンに大写しになる度に、笑いを抑えるのに必至でした。いえ、ウソです。ハッキリ声に出して笑っておりました。出来るコトならば、もっと大声を出して笑いたい。あぁ、もしココが吉本新喜劇の会場ならば、何のストレスもわだかまりもなく、腹の底から大きな声を出して笑えるのになと、悔しくて悔しくて仕方ありません。
更にストーリーが進むにつれてクモは微妙に姿を変えていき、いつの間にかソノ画風は、モンキーパンチ先生が書くキャラクターに近いモノになっていきました。あくまで近いと言うダケであって、モンキーパンチ先生が書くキャラクターっぽいとは言ってませんよ。今にもクモがもう1回ソノ仮面を剥ぎ、中から『こ〜んばんはオレ、ルパァ〜ン3しぇい。』っとか言って世紀の大盗賊の孫がですね、くわえタバコでマグナムをぶっ放す帽子野郎と、時代錯誤の人斬りの2人を従えて出てくるのではないかとハラハラしておりました。そう言やクモの手下はカリオストロ伯爵っぽかったですが。
クモの画風の違いですが、キャラ設定が2つあったとは到底考えられません。1つのキャラ設定しかないのに、原画・動画を描く人の違いによってコノ様になったのだと考える方が自然です。本来、そう言った描き手によるバラバラさ加減に統一感を持たせるべく、修正などを行うのが、動画チェッカーであったり作画監督の仕事であるハズなのですが、そう言った役割の存在感が希薄な辺りが、コノ映画のイメージを立体的に際だたせております。
想像ですけれども田中裕子がクモに声をあてる時、作画が完了していなかったんじゃないかと思います。もし実際に画面を見ながらやっていたのだとしたら、こんな仕事は出来ません!馬鹿にしてんじゃないわよ!アタシを誰だと思ってんの?(日本)アカデミー女優よ!と、台本を力強く床に叩き付けた後、ソノ様な捨てぜりふを吐きながら、スタジオを後にしたんじゃないかと思われます。もしワタクシだったらですね、笑ってしまって仕事にならなかったと思いますが。
前述しましたが、とても商業ベースで作られたとは思えないコノ映画、どっちかって言うと、大学の漫研の卒業制作ですっ言われてみれば、あぁ成る程ね、結構頑張ってんじゃないのとか思える出来でして、コレには博報堂も電通もビックリしたと思いますよ。って言うか何十年も前の学生だった庵野だって、もっと躍動感のある作品を作っていた様な気がしますが。
世間ではですね、セリフが説明的すぎる、声優の喋りに抑揚がなくて聞きづらい、と言った印象がある様ですがワタクシはですね、ソレらはソノママで、作画をし直すダケでカナリ印象の違う映画になるのではないかと思ったりしています。崩れた階段を駆け上がるシーンなんかでも、その階段が引きの絵で固定で映されていて、ソコを人間がだた、ピョンピョン移動しているダケなんですよ。
例えばこのシーンを宮崎パパがやったとするならば、飛び跳ねる足首や握り拳に力がコモる様や、息を大きく吸い込んでから一気にジャンプしてみたりとか、素人のワタクシが考えるダケでもですね、そう言った、さぞかし躍動感のある絵が期待できたであろうとか思っちゃうワケなんですけれども、そうするとですね、ワタクシの愛するクモ迄きっと変わってしまうので、ソレはヤッパリ避けていただこうとか思ったりしております。